「ちわーす。よう、麻衣元気にしてたかぁ」
仕事で数週間、顔を見に来れなかった麻衣へと視線を寄越す前に、俺は、とても奇妙なモノを発見した。
「ぼーさん。久しぶり」
「ムスメよ。コレはいったい」
「あぁ。ナルのコレね。前髪伸びて邪魔だって言うから、綾子からの差し入れ」
尊敬する博士さまが、カチューシャを嵌めて分厚い本を読んでいる。
キラキラと幾重にも光る細い筋が、盛り上がる黒髪を見事に抑え込んでいた。
「何故に、コレをチュイスしたんだ、ナル坊は」
「猫耳よりもマシだって」
綾子のヤツ。猫耳まで持ってきたのか。
「もっと、マシなのは、なかったのかよ」
「スワロフスキーがキラキラと付いたヤツとか、大きなお花が付いたヤツとか、ウサ耳のとか。いっぱい綾子が持ってきてくれたよ。それで、今、ナルがしているのが、一番大人しめで地味なヤツなの」
コレが一番マシって、どういうセンスをしているんだ。綾子は。
「プラスチックの安いヤツがあるだろう」
「うーん。それでもよかったとは思うけれど、一応、お試しで使っているからね」
「綾子が使用したのを使ってるのか」
「ううん。買ったけれど、使ってないのを持ってきてくれたよ」
今、ナルが付けているのや、さきほど、麻衣が言っていたスワロフスキーやお花はまだいい。猫耳やウサ耳はいったいどこに使う気だったんだ。まさか、巫女装束の時に使って、笑いを取る気か、アイツ。
そんなことを考えていると、機材室から、少年とリンが顔を覗かせた。
「お茶を用意するからね」
麻衣が、そう言って給湯室へと歩み去る。
その姿を見送って、出てきた二人に片手を上げた。
「滝川さん、お久しぶりです」
「よぉ、少年。元気そうだな」
「もちろんですよ」
「リンさんも、元気そうでなによりだ」
「滝川さんこそ、お変わりなく」
挨拶をして、ナル坊を顎で指し示す。
「コレ、そのまま放置か」
言いたいことが分かったのだろう。
リンは、微かに笑って頷いた。
少年が面白そうに、こちらを眺めている。
「なかなか見ものですよね。所長のこの姿は」
「まさか、家に帰る時も、この格好か」
ナルと一緒に帰宅するであろう、リンに聞いてみた。
「いえ、本を読むときと、パソコンを使うときくらいです」
「ほぼ、ずっとじゃないか。それ」
事務所でも家でも、ナルのしていることは、そう変わらないはずだ。
ということは、ずっとこの姿のままということか。
「伸びた前髪を、最初は髪ゴムで留めていたんですが、あまりにも、ビジュアル的に残念な仕様になったので、次に谷山さんからピンを借りて留めていたんですよ。ですが、それも面倒になって、今ではコレに落ち着いてます」
少年の説明に、前髪を髪ゴムで留めるナルを想像する。
やったんか。ソレ、ぜひ、見てみたい。
画像を撮ったのだろうか。
後で少年に、聞いてみなくてはならない。
「しっかし、いつもは、どーしてんだ。散髪は誰がしているんだ」
俺の疑問に、リンが答えた。
「いつもは、教授行きつけのところでカットしてもらってます。前髪くらいなら、婦人とジーンがカットしてましたね」
「今度、帰国するまで、このまま放置なのか」
「そうですね。来月帰国予定ですので、その時に、バッサリとカットすると思います」
「オマエさんが、切ってやるというわけにはいかんか」
そう俺が告げれば、リンが肩を竦める。
「滝川さんが、カットしてさしあげればいかがです」
「俺?うーん。丸坊主にしてもいいのなら、カットしてやるが」
「今度の帰国では支援者に対するパーティがありますから、丸坊主はさすがに」
言葉を詰まらせるリンの横で、少年がニコヤカな笑顔で口を挟む。
「尊敬する博士が、坊主頭だと支援してくれる人も減っちゃいますよ」
「だな」
こんなに話し込んでいる俺たちに気付くことなく、飽くまで探究心を忘れない博士の姿勢は見事なものだった。のだが、やはり、その前髪はなんとかならないものだろうか。
「ジェルを塗って、前髪を固めちまえばいいんじゃないか」
いいアイデアだと思ったのだが、リンが首を振って否定する。
「整髪料の匂いが、ダメなようです。自分の姿を見なければ、気にならない今の現状なら問題がないのですが、自然と鼻に付く香りに関しては、集中力の妨げになるようで」
あぁ、それは解る気がする。
匂いは人によって、好みが様々だからな。
そう思っていると、少年が新情報を開示する。
「無香料というのもありますよ」
ほぅ、今は、そんなものがあるのか。
なら、いいんじゃないか。
目で長身の男に訴えると、
「そのうち、それになるかもしれませんね」
キラキラと眩いカチューシャに目を向けて、男三人は苦笑いした。