Forelock.3


「ちわーす。よう、麻衣元気にしてたかぁ」

 仕事で数週間、顔を見に来れなかった麻衣へと視線を寄越す前に、俺は、とても奇妙なモノを発見した。

「ぼーさん。久しぶり」
「ムスメよ。コレはいったい」
「あぁ。ナルのコレね。前髪伸びて邪魔だって言うから、綾子からの差し入れ」

 尊敬する博士さまが、カチューシャを嵌めて分厚い本を読んでいる。

 キラキラと幾重にも光る細い筋が、盛り上がる黒髪を見事に抑え込んでいた。

「何故に、コレをチュイスしたんだ、ナル坊は」
「猫耳よりもマシだって」

 綾子のヤツ。猫耳まで持ってきたのか。

「もっと、マシなのは、なかったのかよ」
「スワロフスキーがキラキラと付いたヤツとか、大きなお花が付いたヤツとか、ウサ耳のとか。いっぱい綾子が持ってきてくれたよ。それで、今、ナルがしているのが、一番大人しめで地味なヤツなの」

 コレが一番マシって、どういうセンスをしているんだ。綾子は。

「プラスチックの安いヤツがあるだろう」
「うーん。それでもよかったとは思うけれど、一応、お試しで使っているからね」
「綾子が使用したのを使ってるのか」
「ううん。買ったけれど、使ってないのを持ってきてくれたよ」

 今、ナルが付けているのや、さきほど、麻衣が言っていたスワロフスキーやお花はまだいい。猫耳やウサ耳はいったいどこに使う気だったんだ。まさか、巫女装束の時に使って、笑いを取る気か、アイツ。

 そんなことを考えていると、機材室から、少年とリンが顔を覗かせた。

「お茶を用意するからね」

 麻衣が、そう言って給湯室へと歩み去る。
 その姿を見送って、出てきた二人に片手を上げた。

「滝川さん、お久しぶりです」
「よぉ、少年。元気そうだな」
「もちろんですよ」
「リンさんも、元気そうでなによりだ」
「滝川さんこそ、お変わりなく」

 挨拶をして、ナル坊を顎で指し示す。

「コレ、そのまま放置か」

 言いたいことが分かったのだろう。
 リンは、微かに笑って頷いた。
 少年が面白そうに、こちらを眺めている。

「なかなか見ものですよね。所長のこの姿は」
「まさか、家に帰る時も、この格好か」

 ナルと一緒に帰宅するであろう、リンに聞いてみた。

「いえ、本を読むときと、パソコンを使うときくらいです」
「ほぼ、ずっとじゃないか。それ」

 事務所でも家でも、ナルのしていることは、そう変わらないはずだ。
 ということは、ずっとこの姿のままということか。

「伸びた前髪を、最初は髪ゴムで留めていたんですが、あまりにも、ビジュアル的に残念な仕様になったので、次に谷山さんからピンを借りて留めていたんですよ。ですが、それも面倒になって、今ではコレに落ち着いてます」

 少年の説明に、前髪を髪ゴムで留めるナルを想像する。
 やったんか。ソレ、ぜひ、見てみたい。
 画像を撮ったのだろうか。
 後で少年に、聞いてみなくてはならない。

「しっかし、いつもは、どーしてんだ。散髪は誰がしているんだ」

 俺の疑問に、リンが答えた。

「いつもは、教授行きつけのところでカットしてもらってます。前髪くらいなら、婦人とジーンがカットしてましたね」
「今度、帰国するまで、このまま放置なのか」
「そうですね。来月帰国予定ですので、その時に、バッサリとカットすると思います」
「オマエさんが、切ってやるというわけにはいかんか」

 そう俺が告げれば、リンが肩を竦める。

「滝川さんが、カットしてさしあげればいかがです」
「俺?うーん。丸坊主にしてもいいのなら、カットしてやるが」
「今度の帰国では支援者に対するパーティがありますから、丸坊主はさすがに」

 言葉を詰まらせるリンの横で、少年がニコヤカな笑顔で口を挟む。

「尊敬する博士が、坊主頭だと支援してくれる人も減っちゃいますよ」
「だな」

 こんなに話し込んでいる俺たちに気付くことなく、飽くまで探究心を忘れない博士の姿勢は見事なものだった。のだが、やはり、その前髪はなんとかならないものだろうか。

「ジェルを塗って、前髪を固めちまえばいいんじゃないか」

 いいアイデアだと思ったのだが、リンが首を振って否定する。

「整髪料の匂いが、ダメなようです。自分の姿を見なければ、気にならない今の現状なら問題がないのですが、自然と鼻に付く香りに関しては、集中力の妨げになるようで」

 あぁ、それは解る気がする。
 匂いは人によって、好みが様々だからな。

 そう思っていると、少年が新情報を開示する。

「無香料というのもありますよ」

 ほぅ、今は、そんなものがあるのか。
 なら、いいんじゃないか。

 目で長身の男に訴えると、

「そのうち、それになるかもしれませんね」

 キラキラと眩いカチューシャに目を向けて、男三人は苦笑いした。
▲TOP