【 N氏の思惑 】
書斎から出ると麻衣がソファで眠り込んでいた。
午後から自宅にやってきて掃除を始めた彼女を放っておき、書斎で仕事をすること数時間。喉の渇きを覚えて部屋を出た僕を出迎えたのは、クウクウと寝息を立てて眠っている麻衣だった、
その姿を一瞥して、まずは目的を達する為、キッチンで湯を沸かす。
棚からティーバッグを取り出し、湯を注ぎ入れたカップを持ち、リビングに戻る。
温かいカップをローテーブルに置いて、麻衣を見下ろせば、身じろぎもせず深く眠り込んでいるようだった。
キッチン周りが綺麗になっていることから、掃除が終わって、休憩したところで寝入ってしまったのだろうと推測する。
晩御飯を作るねと食材を買い込んでいたが、さきほど見たキッチンで、その作業が行われた形跡もないことから、まだ、冷蔵庫に仕舞われたままなのだろう。
食事が用意されなければ、それは、それでいい。
食べないのは慣れているから自分に問題はないのだが、麻衣の場合はどうだろう。
ここは、一先ず起こすことにしようと、低い鼻に指を伸ばして摘み上げる。
息苦しさに身悶えて、目を開けたところで手を放す。
うっすらと涙目になっている目元に指を這わせば、開いた瞼が閉ざされた。
そして何事も無かったかのように、また眠りについてしまう。
寝汚い麻衣の姿に、双子の兄を思い出す。
ソファから蹴り落とせば確実に起きるだろうと、以前兄にした行為を思い浮かべたが、それを麻衣にするには、自分の中の感情が複雑すぎた。
ヤワヤワとした頬に指を移動させると、くすぐったいのか、肩を軽く竦めて麻衣がフワッと微笑んだ。
僕の指の動き一つ一つに反応する麻衣の様子を厭きることなく見続けていた結果、カップの中の紅茶は冷め切って、とても飲めるものではなくなっていた。
柔らかい微笑みを浮かべた麻衣を見下ろして、僕は溜息を付く。
このまま、ソファで寝かせるのも悪くは無いが、今は、冬であることから、風邪をひく可能性もある。
暖房の効いた室内で毛布に包まり仮眠することも調査で何度もあったから、麻衣がそれたけで風邪をひくとは考え難いが、万が一ということもあるのだと、もう一人の自分が告げている。
体力自慢の彼女が風邪を引くはずもないという声も脳内では聞こえるが、それを無視して僕は彼女を抱き起こす。
熟睡する彼女は機材よりも重く、腕力を必要とするけれど、胸元に抱き込んだ身体は温かく、それゆえ手放せれなかった。
寝室のドアを足で押し開け、冷たい部屋に入り込む。
室内の寒さに、麻衣が擦り寄ってくる。
このまま、ベッドに放り込んだら、寒さで目が覚めるだろうかと思いながら、彼女を横たえた。
一瞬だけブルッと身体を震わせて彼女が身を縮ませたけれど、僕がその背中を撫でると、ホゥと息を吐き出し弛緩する。
「麻衣」
小さな声で名を呼ぶと、麻衣の頬が緩んでいく。
暗闇の中、慣れた目が間近にいる彼女の表情を捉える。
布団をかけたあと、薄く灯りを点けて僕は寝室を後にした。
*
パジャマに着替え寝室へ行くと、麻衣がさきほど見た姿勢のまま眠っていた。
一度も起きない彼女。
本当に寝汚いと思いつつも、その横に滑り込む。
普段は冷たいベッドも、今は麻衣の体温を宿して、温かく僕を迎え入れる。
こうして人の体温に安心して眠りに着こうとしているのは、いつの時以来だろうと、遠い昔を思い起こして、フゥと軽く息を吐き出す。
麻衣の体温が、僕を緩やかに眠りの淵に追いやっていく。
トロリと意識が溶け出したころ、何の前触れもなくパチリと麻衣の目が開いた。
僕を見た後すぐに寝返りを打ったかと思うと、その勢いを殺すことなく、今度は、元へ戻るためにまた寝返りを打ってきた。
麻衣が僕を認めて、声を上げる前に、その口元を手で覆う。
掌に湿った吐息が吹きかけられる。
間近で彼女の顔をジッと見詰めると、興奮状態だった身体から力が抜け落ちていく。
その様を見て取り、僕は彼女に告げた。
「僕は寝る」
それだけを言い、目を閉じる。
口元を覆っていた手を外し、彼女の背中に腕を回せば、擦り寄ってくる身体に愛おしさが湧く。
胸元にそれを抱き込んで、眠りの国へと赴いた。
目が覚めると、麻衣が腕の中にいた。
時計の時刻は、6時を過ぎている。
麻衣は、あれから起きることなく、また寝入ったようだ。
目が覚めたのなら、僕の横で、そのまま寝入ることはないだろう。
柔らかな温もりを手放すのは惜しい気もしたが、このまま、麻衣が目覚めるまで傍にいることもできず、踏ん切りをつけるためにベッドから抜け出した。
熱いシャワーを浴びて目を覚まし、リビングで昨日読みかけたまま放置していた本を読んでいると、しばらくして麻衣がオズオズと扉から顔を覗かせた。
「麻衣、お茶」
昨日、飲めなかったものを要求する。
「了解。って、その前に、おはようございます」
彼女が頬を押さえたままそう言って、部屋に入ってきた。
それを見て、僕は軽く頷き視線を再び文字の上に戻す。
晩御飯は朝食となり、そのため出社時間ギリギリまで僕の部屋にいた麻衣は、そのまま一緒に職場へ出ることになった。
朝から沢山の食材を仕込む彼女に、いまから、そんな凝った食事を作らなくてもいいと声をかけてみたが、首を横に振った麻衣は、そのまま調理に入ってしまう。
軽い食事の支度をすれば、家に帰る時間もあっただろうに、彼女は食材を無駄にしたくないという一心で、調理に励んでいるようだった。
また今晩にでも、作りにくればいいと僕が言えば、さすがに今日は家に帰るよと、彼女が恥ずかしそうに答える。
突発で泊まることになったため、家に戻りたいのも分かるが、それなら、いまから戻ればいいものをと思いつつ、彼女が僕の傍に留まっていてくれることに、安堵を覚える。
僕たちの間には、一緒にベッドで寝たこと以外何も無かった。
そのことを麻衣が、どう思っているのか、彼女の口から聞くことも出来ず、出来上がった朝食を一緒に食べて、職場へ向かう。
事務所に行くと、そこには見慣れた人物たちが顔を揃えていた。
冷たい一瞥をくれたあと、1つだけ空けられたソファに座り込む。
安原さんが麻衣を見て告げた内容に、松崎さんが口を挟む。
それに対して、キョロキョロと目を動かす彼女は挙動不審すぎるだろう。
現に、周囲は不思議そうに見つめている。
場の雰囲気に麻衣が飲まれる前に、僕は立ち上がって所長室へ向かうことにした。
* * *
麻衣が僕に、挽回のチャンスをくれと言う。
「何の挽回だ」
「この間、寝入っちゃったじゃない。あんなカタチでナルの家に泊まり込むことになるなんて思いもよらなかったから……、だから挽回したいの」
「それは、」
どちらの挽回だろう。
掃除をして寝こけてしまい、途中になった大掃除の続きをしたいということなのか。それとも、今度は目的を持って泊まり込みたいのか。
麻衣の心理が判らず問おうしたところへ、彼女が勢いよく喋り出す。
「もう少し手を入れたい掃除場所もあるけれど、今度は、それだけじゃなく家に泊まりたいって言ったら、ナル困る?」
顔を真っ赤に染め上げて言う彼女に、僕は、即答した。
「困る」
「こ、困るの。じゃあ」
行かないと言い出す前に、麻衣の身体を抱き寄せる。
「何も手を出さず眠ることは出来ない」
「そ、それは、判っている」
「本当に」
「う、うん」
耳まで赤くなった麻衣に、僕は喉の奥で笑いを噛み締める。
彼女が僕のベッドに残した痕跡を消したくなくて、シーツを洗っていないと言ったら、どんな顔をするだろう。
彼女が泊まりに来る前に、新しいものに替えようと僕が思っていることも知らず、麻衣は顔を俯かせたまま、大人しくその身を預けていた。
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