この事務所で、毎回見かける光景がそこにある。
制服姿の彼女が、椅子に座っている我々へと、それぞれ好みのお茶を手渡していた。
「ぼーさん。はい、いつものヤツだよ」
水滴が周囲に付着しているグラスを、トレイから受け取った滝川さんが、短く礼を述べている。
「リンさんも、ナルも、はい、どうぞ」
事務所ソファー前に置かれているローテーブルに、紅茶をサーブされる。
「ありがとうございます」
気持ちを込めて口にした私に、給仕してくれた谷山さんの頬がホワリと緩んだ。
さっきまで騒がしかった周囲が、飲み物を摂取することで、少しだけまったりとした雰囲気になる。
座ったソファーの背凭れに寄りかかり、仕事上の慢性的な肩の凝りを解していると、すぐ傍で緊迫した声が上がった。
その声音から、ただ事ではない何かを感じ取り、発生源へと視線を向ける。
「麻衣!」
「何、ぼーさん」
名を呼ばれた方は、空のグラスを持ち立ったままキョトンと目を見開いて、横に座っている自称父親を見下ろしている。
そのグラスには、先程アイスコーヒーが並々と注がれていたはずなのだが、もう飲み干してしまったらしい。だから彼女は、空になったグラスを持ち、また液体を充たそうと席を立ったのだろう。
その彼女に向けて、驚愕した表情の滝川さんが手を伸ばす。
「オマエ……、ちょっと見せてみろ」
「へっ?うわっ」
そう言って、腕を掴み引き寄せる。
座っている相手へと重心を傾けてしまい、必死にバランスを保とうとしている彼女の腕を、滝川さんがジッと見詰めている。
「麻衣ちゃん。コレ。どうしたんだ」
「え!ぁぁあぁあ、うん、なんでもないよ」
コップを持ったままの彼女の右腕を掴んで、強い目線で答えを促している。
問われた谷山さんの頬は心持ち赤く染まり、質問した相手を見ないように、ウロウロと視線を彷徨わせていた。
その姿からは、何でもないとは誰もが思わないであろうことは、容易に推察できた。
「何処かに、ぶつけたのか」
滝川さんが顔を顰めて、視線を逸らせたままの谷山さんに、そう告げている。
今、話題になっているのは、谷山さんの二の腕に、クッキリと付いている痕のことだ。
夏服の袖に隠れていて、今までは気付かなかったが、コップを持ち立ちあがった際に、間近で座っている相手には、二の腕の痕がハッキリと見えたのだろう。
「……、そうみたい」
消え入りそうな声で返答する様が、違うと教えているようなものだった。
叱られた子供が怒っている親の顔を見れないとでもいうように、谷山さんが顔を俯けてしまったので、表情から真意を読み取ることが出来ないでいると、そこへ、違う声が割り込んできた。
「でも、それって、キスマークみたいですよね」
「えっ、何で判るんですか」
メガネをかけた事務員の言葉に、見事に引っ掛かる彼女。
驚き顔を晒し、慌てて片手でその口を覆っているが、時すでに遅しだ。
「麻衣ちゃん。キスマークとは、どういうことだ」
滝川さんの頬が引き攣っている。
「いや、あの、その……ね」
しどろもどろに言い募る彼女の腕を解放し、別の女性の名を呼ぶことで、続く言葉を遮る。
「綾子」
自称父・他称母、二人の目線が、数秒だけ絡む。
女性が頷き、席を立った。
「分かったわよ。真砂子もいらっしゃい、麻衣。給湯室に一緒に行きましょう」
「は?あぁ、おかわりするの。うん、待っていて、すぐに持ってくるから」
「いいから、行くわよ」
何も分かっていない、谷山さんを引っ張って、松崎さんと原さんが、衝立の向こうに姿を消した。
「にぎゃああぁああ」
谷山さんの悲鳴が聞こえたが、こっちは、こっちで、おどろおどろしいまでに目が座った男が、ナルを睨んでいた。
「どういうことか、説明してくれ、ナル」
この問いに、溜息を吐き出してナルが口を開いた。
「勘違いするな。筋違いだ」
「どう筋違いだって言うんだ、ナル坊」
「僕じゃないのは確かだな」
「オマエさんじゃないとすると、まさか、少年か!」
「ご期待に添えずに申し訳ありませんが、僕でもありません」
「じゃあ、まさか、ジョンなのか?」
「ボクでも、ありまへん」
滝川さんの鋭い目線が、こちらに突き刺さる。
「リン!オマエ」
「私でもないです」
こちらも、皆と同様、冷静に否定の言葉を口にする。
「ということは、」
「ぼーさんでも、ないようだな」
ナルの言葉に、滝川さんも否定の声を上げる。
「当たり前だ。学校のヤツか、それとも」
「まぁ、まぁ、お父さん。谷山さんもお年頃なんですから、キスマークの一つや二つ、身体に付いていても気にしない、気にしない」
「気にするに決まってんだろう。麻衣は、まだ高校生なんだぞ」
「いったい、幾つになれば、ぼーさんとしてはOKなんだ」
呆れ口調のナルに、滝川さんは大声で喰ってかかる。
「幾つになっても、ムスメはムスメだ。絶対に許さん」
娘を持つ父親としいうのは、こういうものなのだろうか。
独身で、娘を持たない自分には分からないが、身内として見ている谷山さんにキスマークが残されているのは、やはり不穏なものがある。
特に、ナルが自分ではないと言い切ったことからして、事実、そうなのだろうから。
「犯人は分かったの?」
衝立から、松崎さんが出てきた。
背後には、顔を赤らめた谷山さんと、原さんがいる。
「いんや、まだだ。そっちは、どうだった」
「二の腕以外には、何処にも痕跡はなしよ。まぁ、脚の方は見てないから分からないけれどね」
「二の腕以外に、付いているわけないじゃん」
谷山さんが、松崎さんの言葉にくってかかる。
「分からないわよ、太腿の内側にあるかもしれないし」
「ないよ。あるわけがない」
「どうして」
「だって。コレ。あたしが付けたんだもの」
あっ、ヤバッ、言っちゃった。という顔を、呆然と見詰めていると、あはははと乾いた笑い声を、彼女が上げた。
「どういうことだ、麻衣」
滝川さんが、乾いた笑い声に被せるように問うている。
「だからね。自分の腕を枕にしてうつ伏せ寝してたら、こう、腕が口元に当たるでしょう。ほら」
実際にやって見せてくれるが、確かに、痕の場所に谷山さんの唇が当たっている。
「寝ているときに、自分で吸い付いてたみたいで、起きたときには、この痕があったというわけです」
正直に言葉を口にして、スッキリしましたという顔をしている彼女とは、反対に、呆れ顔の周囲の目線が事実を口にした当人に集中する。
「だから、言いたくなかったんだよ。恥ずかしすぎるでしょう。寝ているときに、自分で付けたなんて」
頬を染めて恥らっている彼女に、メガネのブリッジを押し上げた事務員が提案する。
「絆創膏で、隠せばよかったのでは」
「学校では、そうしてたんだよ。ここに来るときに、電車かどこかで、剥がれて落ちちゃったみたいなんだよね。ぼーさんに言われるまで、絆創膏が取れていることも気づかなかったくらいだし」
はあ〜、と息を吐き出す彼女に、こちらも、同様に息を吐き出した。
「もう、今後も、こういう痕を見つけたら、同じ説明するのも恥ずかしいから、何も聞かずに放っておいてよね」
照れた顔で周囲を見渡す谷山さんの姿に、他称母親が口を開く。
「痕を残すほど、吸い付くってアンタ。お腹でも空いてたんじゃない」
「そうかも。だから、綾子が持ってきてくれた、ナポレオンバイを切り分けてもいいよね。ねっ」
「いいわよ。こっちで切り分けて、みんなで食べましょう」
「わーい」
冷蔵庫に仕舞っていたパイを取り出すために、谷山さんが駆け出していく。
その様をみて、滝川さんがボソリと呟いた。
「まだまだ、お子様だよな。麻衣のヤツ」
その言葉に、周囲の誰もが黙って頷いていた。
「麻衣、その痕、どうしたんだ」
「へ?後って、何?」
「ほら、ココだ。見えるだろう」
谷山さんからも見えるように、滝川さんが彼女の腕を軽く捩じる。
「ひぁああぁぁ」
驚きの声を上げて、掴まれていた腕を振り払う。
赤らんだ顔で、スカートの襞を握りしめながら、彼女が答える。
「恥ずかしいから聞かないでって、前の時に言ったじゃん」
怒っているようでもあり、困っているようでもある表情をして、素早く給湯室へ隠れてしまう。
「いや、でも、あの場所は自分で吸い付くのには無理があるだろう」
今度の痕は、肘のすぐ側だったのだ。
まだ、冬服になるのには早い時期ゆえ、今度の痕もハッキリと認識てきたのだが。
「なぁ、ナル坊」
「所長なら、所長室に入られましたよ」
事務員が、正確な情報を滝川さんに告げている。
「リン。オマエさんだって、そう思うだろう」
「そうですね」
確かに、自分で付けるのには、無理がある。
だが、他の人間になら、たやすくつけられる場所だろう。
「肘の内側なら、こうやって自分でもつけられるが、外側は無理だろう」
滝川さんが実演してくれるが、それは、もう分かっていることだった。
「リンさん、何か知っているのか」
「いいえ、何も」
事実とは異なることを私は、自称父親に告げた。
「へぇ、リンさんは感知していないと」
「はい」
私の言葉を信じていないのは分かっているが、私とて、正確な事実は知らないのだ。
ただ、知っていることは、ナルの誕生日当日、彼の唇が艶やかな色をしていたということだけだ。
その日、谷山さんが色つきリップを塗っていて、その色が、ナルの唇に付いたとしか思えないということしか知らないのだ。
あの日から、まだ数日しか経っていないのである。
あの痕が、誰の仕業であるか、ここから素早く身を隠した人物たちしか知らないことなのだろう。
「もう、ナルも18歳を過ぎて成人していますから、保護者がとやかく口を出すべきではないかと」
「ここは日本だ。18歳は成人じゃない。そして、麻衣には早すぎるだろう」
「すみません。お嬢さんはいただきます」
「絶対にやらん」
「そこをなんとか」
「い・や・だ!!!」
私と滝川さんの遣り取りを楽しそうに見詰めているのは、事務員の男ただ一人。
この騒動は、遠く離れたイギリスの地に瞬く間に広まっていくのだろうと、唾を飛ばして激昂している相手の様子を窺いつつ、そう思い至っていた。