学校から事務所に出勤すると、応接セットのソファーにリンさんが座っていた。
事務机には安原さんがいて、パソコンに何やら打ち込んでいる。
ナルは、所長室に籠って読書かと思い、両名へ先に挨拶をする。
お茶の支度をしようとしたら、リンさんにナルの分はいらないと言われたので、出掛けているのかと納得したあたしは、一人分少ない茶器を用意して紅茶を淹れる。
それぞれの机にカップを置き、自分の事務机に座りカップを手にして喉を潤す。
ホゥと一息ついたところで、珍しくこちらにいるリンさんへ声を掛けた。
「ナルは、本屋ですか」
この言葉に、リンさんの目元が少し和ぐ。
「風邪を引いたようで、寝込んでいます」
「は!?」
間が抜けた音が、口から零れる。
「一気に、寒くなってきましたからねぇ」
あたしと対面して作業している安原さんが、さもありなんと頷いている。
ジリジリと焦がすような夏の暑さはないものの、秋特有の日差しは乾燥した空気を含みつつ、まだ熱さを孕んでいた。
反対に朝夕は肌寒く、開け放った窓から入る風の冷たさに、早くも冬の到来を告げられているような気持ちになる。
毛布に包まりながら早朝の寒さに耐えているが、そろそろ炬燵を出そうかと考慮していたあたしは、ふと思いついたことを口にしながらもハタと気付く。
「ナルって、夜遅くまで、本を読んでいたとか、論文を書いていたとか……、アレ、今、何もありませんでしたよね」
1週間くらい前までは、執筆のため事務所にも来ないで、自宅に籠っていたのだ。
それより前は、イギリスから本がダンボール箱いっぱいに届いて、ホクホクしてこの事務所でも読んでいた姿を思い出す。
執筆に必要なモノと、そうでないモノとが、一緒くたにダンボール箱へ詰め込まれていたらしく、文句を言いながらも読みたい本を手にできて幸せという雰囲気を、普段の様子からほんの少しだけ垣間見ることができた。
その本たちも読み終わり、論文の締切にも間に合い、予約している本は、まだ届かず仕舞い。
調査もないことから、ここ最近は、することもなさそうで暇じゃない?と、昨日聞いたばかりだった。
それに対する回答は、寒気を感じるほどの冷たい眼差しで、あたしは引き攣る頬を宥めて、後ずさるように所長室から退却したのだ。
思えば、あの時から調子が悪かったのかもしれない。
「緊張の糸が緩んだといいますか、ちょうど何も無い時だからこそ、身体が不調を訴えて熱が出たのかもしれませんね」
安原さんが、あたしに向き直り答えてくれる。
「インフルエンザではないと思いますが、今日一日、様子を見るつもりです」
リンさんの言葉に、その可能性も否めないことを知る。
「お見舞いに行ってもいいですか?」
あたしが、そう聞くと、リンさんが少しだけ戸惑った表情をする。
「仕事が終わってからだと、帰宅が遅くなりますよ」
「平気です。大丈夫」
就業時間後にナルの自宅に顔を少しだけ出して、すぐ帰るのだから、そう遅くはならないだろう。
全然、問題ありませんと頷くあたしに、安原さんが後押ししてくれる。
「所長が心配ですから、今日は、早めに終わるのはどうでしょう」
少しだけ間を開けて、リンさんがあたしに確認を取る。
「谷山さんも、それでいいですか」
「はい」
就業時間が短縮されると、支払われる給料も下がってしまう。
そのことを心配してくれたのかもしれないと、リンさんの言葉や態度から、そう感じ取る。
「一時間後に事務所を閉めます」
キッパリと告げられた言葉に、あたしたちは明るく返事をした。
★ ☆ ★
初めて訪れた室内は、薄暗く、ベッドサイドに灯されている仄かな光で、横になっている人の顔を見る。
うっすらと額に汗をかき、赤味を帯びた頬は、普段とは違う体温を現し、吐き出される息は、呼気が乱れ浅く忙しない音を発していた。
「ナル。汗拭くね」
寝ているため聞こえないかもしれないが、一言声を掛けて、額の汗をハンカチで拭き取る。
濡れタオルでも持ってきて、もう一度ちゃんと拭き取ろうかと思っていたら、閉じていた瞼が開いた。
ぼんやりと焦点の合っていない目線。
その瞳に映るように、あたしは覗き込んで声をかけた。
「大丈夫?」
ゆっくりと瞬きを数回繰り返したあと、名を呼ばれた。
「麻衣?」
「うん、あたし。お見舞いにきたの」
「そう」
この会話だけでも、息遣いは苦しそうだ。
「飲めるかな」
横になっているナルに、ペットボトルを持って聞いてみると、飲みたい仕草をする。
「はい、零れてもいいから、飲んで」
上半身を起こすのも辛いのか、何とか起き上がったナルの口元に、蓋を開けたペットボトルを押し当てた。
零れてもいいように、先程使用したハンカチを顎の下に当て添える。
喉仏が動き、嚥下している様を伝える。
ハンカチ越しに、高い体温を感じ取る。
緩く首を横に振る仕草に、もう充分なのだと理解した。
「薬、飲んでいるんでしょう。早く良くなるといいね」
「あぁ」
潤んだ瞳は、あたしではなく、何処かを見ていた。
普段とは違う茫洋とした目元を見ていると、長居は不要だと感じる。
「じゃあ、帰るね。ゆっくり休んでね」
上半身を起こしたナルが、再び横になる姿を見遣って、あたしは部屋を後にした。
「リンさん。ナル熱が高いね。あと、起きたから水分を少し取ったよ」
「そうですか。分かりました」
市販の薬を飲んでいるが、これで治るだろうかと不安がよぎる。
医者へ行くのにも、診察時間を過ぎていることから、後は夜間外来にでも行くしかない。
綾子の病院という手もあるなぁと思いつつ、あたしはソファー近くに置いていた通学カバンを手に取った。
「あたし、帰りますね」
何やら、キッチンで片付けていたリンさんの後姿に声をかけ、玄関へと廊下を突き進む。
「送って行きます」
慌ててやってきたリンさんに、靴を履きながら断りを入れる。
「いいよ。駅、近いもの」
このマンション、本当に駅から近いのだ。
今日、初めて来た場所は、迷いようが無いほど、駅からの道順は簡単だった。
「本当なら、自宅まで送っていきたいのですが」
リンさんが申し訳なさそうに、首を竦める。
「それこそ、大丈夫だよ」
靴を履いて、ドアの取っ手を掴む。
抵抗もなく、扉が開かれる。
「エントランスまで、見送ります」
あたしに続いて、靴を履こうとしているリンさんを留まらせる。
「いいよ、ナルに付いていてあげて。じゃあ、明日は普通に事務所を開けますから」
「ナルの具合によっては、私も休みます」
「わかりました。安原さんと二人で、お仕事してますね」
「よろしく、お願いします」
「は〜い」
パタンと閉じた扉を背に、あたしはスタスタと歩き出す。
なんだか、胸がモヤモヤする。
なんでだろうと、突き当りにあるエレベーターの下りボタンを、強く押し当て考えていた。