Disease 




 気配を感じて目を開けると、うすぼんやりとした視界の中に、麻衣がいた。

「ナル。まだ、怠そうだね」
「麻衣」

 帰ったはずの彼女が、ベッドの傍にいる。
 あれから、数時間が経ったと思ったのは、気のせいだったのだろうか。

「起きるの?大丈夫」
「あぁ」

 ベッドから背を離して起き上がると、傍にいた麻衣が心配そうに僕を見ていた。

「どこへ行くの」
「トイレ」

 後を付いてきそうな勢いだった麻衣の動きが止まる。
 部屋を出て、個室のドアを開ける。
 その時に見た数字は、03:12。
 午前3時だ。

 麻衣が、ここにいるはずのない時間。
 夢でも見たのか。
 そんな取り留めのないことを思いながら用を足す。
 個室から出ると、そこには麻衣が所在無げに立っていた。

「麻衣」
「何?ナル」
「オマエ」

 言いかけた言葉が喉に絡んで、咳が出る。
 二度三度と軽く吐き出していた咳が収まらず、身体を丸めてやり過ごす。
 その背を、麻衣の手が撫で摩る。

「大丈夫」だと言いたいのに、咽てしまい声が音にならない。
 ようやく咳が収まり、周囲を見渡すと麻衣の姿が消えていた。

 夢か、目の錯覚だったのか、幻のように消えてしまった彼女を見つけ出そうと、暗い室内を見渡すが、置いてあるデジタル時計の仄かな灯りしか発見できなかった。

 しばらく様子を窺っていたが、何の変化もない。
 シンと静まり返った暗闇の中、一人立ち尽くしていると、玄関を開錠する音が聞こえてきた。

 廊下の明かりが、暗いリビングに差し込む。
 誰かが、こちらへと歩み寄る。
 ここに入れるのは、

「リン」
「ナル。起きてましたか」
「あぁ」

 室内に入り込み点灯した人物は、隣の部屋に住むリンだった。
 煌々とした灯りが、暗闇に慣れた目に眩しく、数回瞬きを繰り返す。

「どうした、こんな時間に」

 パジャマ姿で、僕の部屋を訪ねる理由が分からない。
 昨日から出ていた熱も下がり、意識もはっきりしていることから、リンは夜中に自宅へと戻っていたのだが。

「ナルの具合がよくないと言われたので」
「誰から」
「それが……、谷山さんからです」
「麻衣?」
「えぇ、私は寝ていたはずなのですが、谷山さんが現れて、ナルの具合が悪いから見て欲しいと言われました」

 どこか覚束ない表情で、リンが説明をする。

「夢だとは思わなかったのか、リン」
「夢だと思いましたが、何かが起きているのではないかと心配になって、様子を見に来たのですが、とり越し苦労だったようですね」
「いや、そうでもない」
「ナル?」

 先程、自分に起きた現象をリンに伝えると、興味深そうに目を細めた。

「幽体離脱でしょうか」
「可能性はあるな」
「明日も、来るでしょうか」
「どうだろう」

 夜明けまで、まだ早い時間に、目を輝かせるメカニックが一人。
 僕もまた、似たような目をしているのかもしれない。
 この部屋に機材を置くのは間違いないだろうと、今後の予定を考えつつ、少し気怠い身体を休めるために寝室へと戻ることにした。



   ★   ☆   ★



「すみませんが、ナルの具合がよくないので、事務所には行けません」

 リンが、事務所へ休むことを伝えている。

「はい、分かりました。そちらもキリの良い時間になったら、閉めてください。はい、明日には、大分良くなっていると思いますので、ご心配なく」

 通話を打ち切って、こちらを振り返ったリンの視線の先にあるのは、調査時と変わらない機材たちだった。

「メンテナンス用に、持ち帰ったヤツです。整備不良がないかの動作チェックも兼ねていますので、お気になさらず」

 別に、気にしているわけではないが、熱もほぼ下がり、出勤しようと思っていたところを止められて、再び、ベッドに押し込まれたのは数時間前だ。

 昼間、事務所に出勤するくらいはいいと思うのだが、麻衣が現れる確実性を取るのなら、今日も休んだ方がいいと言われて、渋々と従う。

 読みたい本があるわけでもなく、興味のない論文を見るのにも厭きて、リビングにやってきたら、いつの間にと感心するほどの機材が、そこに置かれていた。

「家庭用電源しかありませんので、そうたいしたことは出来ませんが、最低限の機材を用意しましたので、いつでも撮影は可能です」

 誰も聞いていないのに、そう答えられて、あぁとしか反応できなかった。

「今日も谷山さんがお見舞いに来たがっていましたが、あえて、断りました。これで、ここに出現する可能性はグンと高くなります」

 ハイテンションで語る部下に、こんなによく喋ったことがここ数年あっただろうかと、少しばかり生温い目線を向けてしまう。

「では、私のことはお気になさらず、普段通りの生活を心がけてください」
「わかった」

 麻衣が現れる映像を撮影出来るのなら、それに越したことはないが、病み上がりに普段通りの生活をしろと言われても、特別することもない。
 興味を引く、本もデータも論文すら手元になく、ネットの海に、ただ無作為に漂う気にもなれず、ソファーに座り目を閉じる。

 喉が渇いたと思ったときに、麻衣の声が聞こえた。

「起きてて、大丈夫なの」
「麻衣、お茶」
「薬を飲んでいるときに、カフェインはよくないんじゃないの」
「別にいい」
「いいわけあるか!」

 昨日、いや、今日、見た時は幻かと思ったけれど、ずいぶんとハッキリ見える。
 幽体離脱したのではなく、当人が、ここへやってきたのかと、リンを見遣れば、カメラとデータに夢中になっていた。

 これは、やはり。

「どうしたの」
「いや、何でもない」

 制服姿の麻衣が、僕を見て、小首を傾げている。

「お茶、一応入れるけれど、ナルは、少しだけしか飲んじゃ駄目だからね。リンさんも飲みますよね」
「はい」

 画面に向かって返事をするリンに、不思議そうな表情を浮かべて麻衣がキッチンに向かう。

「ところで、ナルの家。どこに、薬缶や茶葉があるの?」

 麻衣が、ここへ来たことは無いのだから、何がどこにあるのか知らなくて当然だろう。
 言われた内容に、置かれている場所を教えて、彼女がお茶を入れるまで、ダイニングの椅子に座って様子を窺う。

 こうして見ても、実体としか思えないほど、麻衣の身体は活気に満ちていた。

「何、どうかした?」

 麻衣の姿を観察していた僕の視線が気になるのだろう。
 紅茶を淹れる間に、こちらを窺う気配を感じる。

「いいや、何でもない」
「もうじき、出来るから。待っていて。でも、そんなに飲んだらダメだからね」
「あぁ」

 母親が子供に言い聞かせるように、何度も同じことを口にする。
 そんなに聞き分けの悪いように見えるのだろうか。

「はい、出来たよ」

 ダイニングテーブルの上に、カッブが二つ置かれた。

「リンさんも、こっちで飲みませんか」
「お構いなく」

 撮影に夢中のリンは、紅茶をすぐに飲む気はないようだ。

「麻衣が飲めばいい」
「いいよ、あたしは」

 手を横に振って断る仕草をする麻衣は、自分が実体でここにいると思っているのだろうか。
 ふと、疑問に思って、麻衣の顔を見ていると、彼女がふわぁと欠伸をする。
 僕が見ていたのが分かって、罰の悪そうな顔をした。

「寝ても、寝ても、眠いんだよね。今日は、早く寝たはずなのになぁ」

 それで、彼女は、深夜ではないこの時間帯に現れたのだ。
 まだ、夜中には程遠い20時という、この時間に。

「早く、帰って寝ろ」
「うん、ナルが、それ飲んだら片付けて帰るよ」
「片付けは僕がやっておく」
「いいよ。そのくらい、すぐに出来るから」
「麻衣」

 強く名を呼べば、彼女が唇を尖らせる。

「熱はもう下がったんだよね」
「あぁ」
「明日は、事務所に来る?」
「出勤する」

 僕の答えに満足したように、麻衣が頷く。
 そして、瞬きする間にスーッと姿が掻き消えた。


「リン」
「録画されています」
「データはどうだ」
「問題ありません」

 麻衣が録画された映像を二人でチェックする。

「集音マイクでも、音は拾えているな」
「えぇ、オールクリアです」
「こうなると、麻衣の脳波を計ってみたいな」
「CTとMRIでも、スキャンしたいです」

 こうして僕たちは、調査員のデータを確認して、次なるステップに進むため動き出した。



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