「何を見ている」
「おぉっと」
こちらをジッと見詰めている麻衣に、視線を向けて問い質す。
論文作成で疲れた目元を解そうと、休憩を取ることにした。
所長室を出て、机上で何やら書きこんでいた調査員にお茶の催促をして、ソファに座り込む。
「こっちで飲むの、珍しいね」
ニコニコと笑う麻衣にそう言われて、ムッとした感情が少しだけ浮かんだが、それを無視して目を閉じる。
目頭を軽く指先で揉み解し、再び目を開ける。
まだ、疲労感が抜けないが、後は、お茶でも飲めばだいぶスッキリするだろうと、何を見るでもなく視線を前へと向ける。
しばらく、そのままの姿勢でいると、麻衣がカチャリと音を立て、目の前のテーブルにカップをサーブした。
「ほい、お待ちどうさま。麻衣ちゃんスペシャルです」
湯気を立てている茶器を手元に引き寄せ、軽く息を吐き出し、琥珀色をした液体を口に含む。
「どう、美味しい?」
お茶の味覚を催促されるが、それを無視して、更に、飲み進めると、チエッとすぐ傍から舌打ちが聞こえた。
「不味くはないな」
そう、一言で感想を伝えると、へへへと嬉しそうに麻衣が笑う。
「褒められちった」
ルンルンと鼻歌でも口ずさみそうな様子で、麻衣も自分用に入れた紅茶を飲む。
「うん、美味しい」
幸せだなぁとホクホクした笑顔で言われて、単純なヤツだと視線を空になったカップに落とす。
「おかわりする、ナル」
「いや、今は、いらない」
「じゃあ、後で所長室に持っていくね」
「あぁ、そうしてくれ」
飲み干したカップをテーブルに置き、重たい瞼をもう一度閉じる。
ホゥと肩から力が抜けて、凝り固まっていた背筋が緩む。
そうして、しばらくそのままの姿勢でいたのだが……。
「いったい、何のつもりだ」
「確認だよ」
「だから、何を確認したいんだ、オマエは」
自分の目の前にいる少女の行動理由が掴めない。
ソファに深く座り込んでいる自分の膝に、身を乗り出すように麻衣が重心をこちらに傾けて、僕を覗き込んでいる。
上からジッと見られて、閉じていた瞼をいささか面倒な気持ちで抉じ開ける。
最初に目に飛び込んだのは、麻衣が着ている制服のリボンだった。
眼前で、呼吸に合わせて動く布地に焦点が結ばれる。
その間も、瞬きひとつしないであろう麻衣の視線が、こちらの顔を凝視している。
視線を合わせるため上向こうとすると、麻衣が制止の声を上げた。
「ナル、ストップ。あぁ、動いたらダメだって」
眼球だけをギョロリと動かして、麻衣を見上げる。
「あぁ、もう、分からなくなったじゃないか。もう一回数えるから、そのまま動いちゃダメだよ」
そう言って、麻衣がブツブツと数え上げている。
いったい、何の数だろうか。
そんな疑問が一瞬湧いたが、それに付き合う謂れもないので、制止していた動きを再開した。
「あぁ、ナル。なんで動くの、もう少しだったのに」
「麻衣」
これ以上付き合う気はないという気持ちで名前を呼ぶと、ガクリと肩を落として、麻衣が僕から離れていく。それをさせまいと、腕を掴んで引き寄せた。
もともと、近かった距離がその一瞬で、ゼロに近づく。
「ちっ、近い、近いって、ナル!」
「谷山さんの方から積極的に近づいてくださったのですから、それに対して、こちらも協力してさしあげましたが、何か困ることでもおありですか」
あるに決まっているという表情だが、頬に上った血色が、その迫力を削いでいる。
「いったい、何をするつもりだったのか、言う気はあるのか」
もし、無いのなら実力行使で口を割らせようと言う意思の元、問い質せば、麻衣はすんなり理由を白状した。
「だから、ナルの睫毛の数が知りたかったの」
「それを知って、どうする」
「うーんとね。納得する」
「何に対して」
「やっぱり、200本以上はあるよね。睫毛」
「その200という数はどこからきているんだ」
いい加減、会話しているのがバカらしくなってきたが、はっきりと口にした数字が気にかかった。
「今日ね、ここに来る前に乗った電車の中でのことなんだけど」
麻衣が、数字と何故睫毛を数えたいという欲望にかられたのか話し出す。
「やだ、ゆっこ、エクステしたの」
「そう、マリ。可愛いでしょう。睫毛」
座れるほど、空いてはない電車内。
出入口近くに立っていた麻衣のすぐ傍で、華やかな声が聞こえてくる。
振り返り見てみると、女子大学生だと思われる数人が、声を潜めることなく話し込んでいる。
ゆっこと呼ばれた女性を見ると、確かに、目元がクルッとした睫毛に覆われていた。
あれが、エクステかぁと、感心して見ていると、友人たちの間で、更に話が盛り上がっていた。
「二時間かかったよ」
「えっ、そんなに時間がかかるんだ」
「うん、200本付けたからね」
「えぇぇぇ、200本。そんなにあるの」
「うわっ、すごい。幾らかかるの、お金」
「テストモデルだから、タダだよ」
「羨ましい!」
「それって、どのくらいの期間保てるの?」
彼女たちの会話は、耳を素通りしていたが、200本という数字だけが麻衣の印象に強く残っていた。
アレで200本かぁ。
ナルも似たようなものかも。
そう思いながら、事務所へ来たものだから、つい、目を閉じたナルを見た麻衣は、今がチャンスとばかりに、数を調べることにしたというのが、真相なのだが。
「僕の睫毛の数は分かったのか」
「数えていたのに、動いたのは誰さ」
理由を聞いても、協力する気にもなれないナルは嘆息して、麻衣の腕を解放した。
掴まれた腕が自由になったことで、ナルの傍から離れると思いきや、性懲りもなく、また数を口にし始めた。懲りるということを知らない彼女の行動に、瞳を瞬いて反抗する。
「もう、数えられないじゃん」
「いい加減、諦めろ」
「ヤダ」
「麻衣」
強めに名前を呼ぶことで拒否を表した僕に、しぶしぶという態で麻衣が視線を上へとずらす。
そこへ来客を告げる、ベルが鳴る。
「こんにちは。アレ、僕、お邪魔しちゃいましたか」
もう一人のアルバイト。
安原がこちらを見ながら、少しも悪いと思っていない笑顔を向ける。
「安原さん、何か、飲みますか」
麻衣が、サッと僕から離れて、身体ごと彼に向き直る。
「そうですね。谷山さんたちが飲んでいたものと同じものをいただけますか」
「はーい」
テーブルに置かれた二つのカップをトレイに乗せて、麻衣が給湯室へと引っ込む。
「所長。リンさんはお出かけですか」
「部品の買い出しに出かけている」
説明しながら立ち上がり、所長室へと足を向ける。
背後に感じる、安原の笑顔の矛先は、自然と麻衣へと向けられることだろう。
彼女が僕と密着していた理由が明らかになるのは、一杯のお茶がカップに入れられる間しかなかった。