Misapprehension

「赤ちゃんがデキたの」
「誰の」
「ナルのだよ」

 その一言が事務所内に響き渡ると同時に、彼女の自称父親がソファからガバッと立ち上がり所長室へと駆け込んだ。
 そのすぐ後を、保護者代理が続く。

 バタンと閉まった扉を呆然と見つめているのは、先程の爆弾発言をした彼女一人だけ。

「あれ。ぼーさん。リンさん」

 谷山さんが、不思議そうに首を傾げている。

「麻衣、アンタいつの間に」
「そうですわ、あたくしたちにも教えてくださらなかっただなんて」

 この場にいる女性二名は、その彼女に食ってかかる勢いで、問い詰めている。

「よろしかったですな」

 一人、ブラウンさんだけが、ソファに座った位置から動くこともなく、ニコニコと笑顔で話している。

 それを傍観している僕はといえば、谷山さんが、この後、何を言うのか注意深く見守っていた。

「綾子も、真砂子も、いったい、どうしたの。水臭いって何?」
「何も、アンタ、どうするの」
「そうですわ。麻衣は、どうするんですの」

 二人の勢いに、タジタジ気味の谷山さんが、言葉を発するより前に、閉じられていた扉が勢いよく開かれた。

「麻衣」
「あっ、ナル」

 所長の顔を見て、谷山さんがホッと笑った。
 しかし、所長の後ろにいる長身の男達の姿に、やはり、不思議そうに首を傾げている。

「どういうことだ」
「何が?」
「この二人が言うには、子供が出来たらしいじゃないか」
「子供?あぁ、赤ちゃんね。うん。そうだよ」

 当事者がニコリと頷けば、父親を自称する男が、彼女の肩に縋るよう手を置く。

「麻衣!」
「何?ぼーさん」
「その、……どうするんだ」
「何が?」
「だから、赤ちゃん、育てていけるのか」

 大真面目に彼女の顔を覗き込みながら、滝川さんが質問している。
 その横で女性二人も、頷いている。

「えっ。無理」
「無理って、オマエ」
「里子に出すから、里親を探してるの」
「里子って、オマっ」

 アッサリと言う彼女と、その言葉に色めき立つ周囲の反応は、見ているこちらが楽しくなるほどの対比だった。

「麻衣が一人で育てるのが無理なら、みんなで育てるから、なぁ、麻衣。考え直さないか」

 父親が、娘の考えを説き伏せるように優しく言葉を告げる。
 だが、彼女は一瞬の躊躇いもなく、首を横に振る。

「あたしには無理だよ。ぼーさん」
「麻衣ぃぃぃ」

 項垂れた父親の首は、ゆっくりと、所長に向かって振り上げられた。

「なぁ〜る〜ぼ〜う」

 地の底から這って出ていると言っても過言ではないくらい、恨みが込められている声音で所長の名を発している。

「ぼーさん、赤ちゃんのこと喜んでくれないの?」

 そんな滝川さんを見て、悲しそうに谷山さんが顔を曇らせる。

「いっ、嫌、うん、嬉しい。嬉しいが。麻衣のことを考えると、嬉しさよりも恨めしさが先に立つんだ」
「恨めしい?何で」

心底不思議そうに、谷山さんが言葉を返す。

「そりゃあ、そうだろう。手塩にかけた娘が知らぬ間に子供が出来たって言うんだ。しかも、相手がナル坊だろう。
父親としては、心配を通り越して、腸煮えくり返るくらい、恨めしい気持ちでいっぱいなんだよ」

 本気で、呪い殺せるのではないかと思うほどの殺気が、滝川さんの目に籠っている。

「僕に身に覚えはない」

 それを真正面から受け止めた所長が、首を振って否定する。

「いまさら、何言ってんだ。麻衣だって、そう言ってるだろう」

 掴み掛らん限りの勢いで、所長に向かっていきそうな滝川さんを止めるために、今まで沈黙を貫いていた僕は、声をかけることにした。



「可愛いですよね。赤ちゃん」

 不思議そうに所長と滝川さんの遣り取りを見ていた谷山さんが、僕の声にニッコリと笑う。

「安原さんも見たんですか」
「えぇ、動画ですが」
「あたしは、今日、生で見てきましたよ」

 谷山さんと僕の間で、ほのぼのとした空気が流れる。

「ちょっと、待て。少年」
「何ですか、滝川さん」
「見たって、何をだ」
「いやですね。この会話で解りませんか。ナルの赤ちゃんですよ」

 僕の言葉に、谷山さん以外が首を傾げているのが分かる。

「あたしも出来ることなら欲しいんですけれど、うちではとても飼えませんから」
「そうですね。僕のところも無理ですね」
「上手く里親が見つかればいいんですけれど」
「大丈夫でしょう。母親に似て、みんな美人さん揃いでしたから」
「ですよね。ナルは本当に、美人さんだから」

 まだまだ続く、赤ちゃんとナルの話に、とうとう我慢できなくなったのか、周囲が僕たちを取り囲んで騒ぎだした。

「どういうことよ」
「そうですわ。ナルの子供をかうって」
「生まれてはるのですか」
「麻衣、いつの間に、出産してたんだ」
「谷山さん」

 一人だけ言葉を発していない所長は、もう分かったのだろう。
 無言で所長室へと戻っていく。

「ぼーさんやみんなにも話したことあると思うけれど。猫のナルが赤ちゃんを産んだんだよ」

 谷山さんの言葉に、それぞれが口と動きを止めた。

「可愛いんだけど、うちのアパートでは飼えないし、飼い主の友達も、全部は飼えないから、今、里親を探しているの」

 続く言葉に、周囲の人々から肩の力が抜けていくのが分かった。

「しょぉおねぇぇん」
「はい、ノリオ」
「麻衣が何を言っているか分かっていて、黙っていたな」
「嫌ですよ。僕はただ、そうじゃないかなぁと思っていただけで、皆さんの反応を見るために静観していたわけではありませんから」

 ズレてもいない眼鏡を押し上げて、口元を引き締める。

「面白がって見てただけだろう」
「そうとも、言えますね」

 はぁ〜と息を吐き出して、黄昏ている滝川さんに、そろそろ現実を見てもらおうと真実を突きつける。

「所長の機嫌は、今、どんなものでしょうね」

 さっさとこの場からいなくなった所長の存在を、僕の言葉で知った滝川さんは、面白いくらい顔が青ざめている。
 もう一人、保護者代理の長身な男を見ると、やはり同様の顔色だった。

 二人して、所長を問い詰めたことは、想像に難くない。
 所長室では、かなりのブリザードが吹き荒れていることだろう。

「麻衣」
「何、ぼーさん」
「ヤツに茶を持って行ってくれ」
「ナルに?うん、わかった」

 そう言われた、彼女が給湯室へと消えていく。
 元凶である彼女を送り込んで、少しでも、風当たりを弱めようという作戦は、どういう案配を見せるだろうか。

 まだまだ楽しめそうな予感に胸を躍らせながら、里親募集と記載されている子猫の画像を、周囲のみんなに見えるよう画面を傾けた。



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