M嬢の決意 N氏の思惑 




【 M嬢の決意 】


 棚の上に積もったホコリを雑巾で拭き取る。
 薄汚れた布を見て、マメに掃除をしなくては、と脚立から一歩ずつ足を踏み下ろす。
 赤い脚立は、ほぼ、あたし専用になっている。
 ある日、リンさんが出勤したとき、小脇に抱えていたのが、この脚立だった。

「谷山さん」
「はい」
「これを使って下さい」

 スッと差し出されたのは、普段見慣れているアルミ製の大きいモノではなく、真っ赤な塗装が可愛い三段の脚立だった。

「えっと」
「棚の上にまで本が増えましたから、取るのは大変でしょう」
「はい」

 ナルが資料用として事務所の棚上にまで、本を乗せるようになったため、毎回、あたしは事務椅子の上に乗って取っていたのだ。

「不安定な足場では危険が伴います。これなら大丈夫かと」
「ありがとうございます」

 それ以来、この脚立はあたしの相棒になっている。
 手に持った雑巾で、相棒を綺麗に拭き上げる。
 こんなところにも傷があったのかと、普段は気が付かない場所を発見して顔を曇らす。
 剥げた部分は、あとで油性マーカーを塗って誤魔化そう。
 そう思い、せっせと拭いていると背後から声をかけられた。

「熱心だな」

 振り向くと、この事務所の所長さまが立っていた。

「いつも、お世話になっているから、綺麗にしてあげないと」
「僕の部屋でも、ずいぶん熱心に掃除されていたようですが」
「あれは、」

 ナルの部屋の掃除をかって出たときに、あたしは大失態を犯していた。



* * *

    

 初めてナルの家へ行った。
 大掃除が主目的だが、夕飯を作って、その後、ゆっくりナルと過ごすのが最大の目標だ。
 午後からお邪魔して、玄関周りを綺麗にしてから、リビングとダイニング、廊下、洗面所などを掃除する。
 床は掃除機で済ませ、水回りへ移行し、まずはトイレからと、下宿のおばあちゃんに教わった重曹を使い、汚れを落としていく。

 お風呂場にある鏡も、クエン酸水とラップ、そして、重曹を使って水垢を落とした。
 1つずつ綺麗になる場所が増えると、俄然やる気が出て、キッチン周りを一通り片付けたら、すっかり夕暮れ時だった。
 夕飯の準備をする前に一休みと、ソファに座り、ホッと一息ついたのが、今思うと、まずかったのだ。

 気が付いたらナルがいて、一瞬、夢かと寝返りを打ち、瞬時に元の場所へと戻る。
 あたしの横、すぐ傍にナルがいる!
 なんで? なんで!? ナルがあたしの部屋にいるの!

 悲鳴を上げようとして、その当人に阻止された。
 温かい掌があたしの口を覆って、声を上げさせないようにする。
 それが、更に、あたしのパニック度を引き上げたけれど、ナルの目を光源が絞られた僅かな灯りの中で見詰めていると、徐々に興奮が去り気持ちが静まってきた。

「僕は寝る」

 普段と変わらない声音で告げられる。
 口元を覆っていた手が離れ、ナルが目を閉じてしまう。
 覚醒した意識は、背中に当てられたナルの手の動きによって、緩やかにまた眠りの淵に落ちて行こうとする。
 こうして二度寝したあたしが、次に目を覚ましたときには、とっくに夜が明けていた。



 見たこともない室内で目が覚めて、誰もいないベッドからムクリと起き上がり、プチパニックに陥る。
 自分の着ている服が乱れていないか、パッと手早くチェックして、慌てて部屋から飛び出す。
 どことなく見覚えのある廊下と玄関に置かれた靴を見て、ここがナルの自宅だと理解したときは、緊張の糸が切れて膝から崩れ落ちていた。

 昨日、部屋に来たとき、ナルから寝室と書斎には手を付けないよう言われていたから、それ以外の場所を掃除したのだ。
 だから起きたとき、そこがナルの寝室だと気付けなかった。

 床にペタリとお尻をつけて座り込んだあたしは、ぼんやりと昨夜のことを思い起こす。
 目が覚めたとき、自分の部屋にナルがいると思っていたが、今思うとそれは勘違いで、ソファで寝入ったあたしを見かねて、ナルが自室のベッドに運んでくれたようだ。
 ナルの家は、ナルしか住んでいない。
 従って、ベッドは住人であるナルが利用しているわけで、眠りこけたあたしに貸せる布団は無く、一緒に寝るしかなかったのだと悟る。

 自分の失態が恥ずかしく、頬に熱が集まってくる。
 アッサリ二度寝したのも、肌触りの良い布団が要因の一つになっていたはずだ。
 決して、背中に回ったナルの腕が存外心地よかっただけではない……はず。
 彼氏宅で初めてのお泊りが、掃除し疲れて眠り込んだというのは、乙女的にはいただけない。

 冷たい床が、身体から発する熱で温まっていく。
 頬の熱を冷ますように掌を押し当て立ち上がり、リビングへと続く廊下をおずおずと歩き出した。







 昨日は掃除をするために早く帰ったが、今日も仕事があり、ナルと一緒に出勤したあたしを見て、安原さんが意味深な一言をくれた。

「谷山さん。今日も、可愛い服を着ていますね」
「あら、当然よ。アタシのおさがりだから」

 その場にいた綾子が肯定するも、安原さんが言いたかったのは、そこではない。
 昨日と同じ服で出勤ですね。何かありましたよね。が正解だ。
 それが分かるのは多分リンさんだけで、他のメンバーは綾子の言葉に緩く頷いている。

「そ、そうだね、これ、気に入っているんだ、あはは」

 気に入っているから、二日続けて着ているアピールをしたけれど、あたしの態度から周囲も何か感づいたようだ。

「麻衣」
「何かな、ぼーさん」
「オマエ、目が泳いでいるぞ」
「そ、そんなこと、無い! よぉ」

 言い切った後に、思わず語尾が揺れる。
 嘘が付けないのは困りモノだ。
 お茶を淹れるねと言い残し、あたしは給湯室へ逃げ込んだ。



    *



 その後、何も追及されず、よかったと胸を撫で下ろすも、別段、悪いことはしていない。
 ナルの家に思いがけず泊まってしまい、一緒のベッドで眠っただけだ。
 夕食用の食材は朝食になって、お腹に収まったし、部屋もキレイになり、あたしの目的は無事に達成したけれど、当初立てた目標には、遠く及ばない結果になってしまった。

 そのことを気に留めながら事務所で掃除をしていると、ナルに声をかけられた。

 前回の失態を、なんとか挽回できないだろうか。
 今度こそ、ナルの自宅でゆっくりと過ごしたい。
 その願いを叶えるために、ノックして所長室の扉を押し開けた。



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